
日本語ボランティアの平野さんは授業を終え、帰り支度をしていた時、ボランティア仲間の相馬さんに会いました。どうやら偶然ではなく、平野さんを待っていたようです。
挨拶を交わすと、さっそく相馬さんは切り出しました。
―来週の授業なんすけど、あのう、ちょっと、トラが入っちゃって。
―トラ?
虎がどこに入ったというのでしょう。驚く平野さんに、相馬さんは説明を加えました。
―あの、トラっていうのはエキストラのことで、コンサートとかの助っ人のことです。アイドルのコンサートで、ギターがいないっていうんで、トラを頼まれちゃって、授業休みたいんです。
で、平野さんに俺の授業、1回だけやっていただけないかな、って……。
相馬さんのクラスは、上級です。上級の学習者を教えた経験がほとんどない平野さんはちょっと迷いましたが、これも経験か、と考えて快諾しました。相馬さんは手を合わせて感謝を示すと、ギターの入ったソフトケースを肩にかけると、待ち合わせていた彼女(=河田さん)と仲良く帰っていきました。
☆ ☆ ☆
翌週、平野さんは上級の授業に出向きました。相馬さんはコンサートのトラ、そして平野さんはいわば、相馬さんのトラです。
ボランティアの上級クラスは、教科書がありません(相馬さん曰く「勉強したいものを持ってきて、それを一緒にやるっす」)。学習者の2人はどちらも女性で、平野さんが教室に入ると、向かい合わせに座って、本を読んでいました。
―こんばんは。
平野さんが挨拶をすると二人は本を閉じて、軽く頭を下げました。
―お名前は?
二人は同時に話し始め、それに気づくとまた同時に手のひらを差し出し、互いに譲り合うようにしました。教室は和やかになりましたが、平野さんだけは、この物腰は明らかに初級とは違う、と気を引き締めました。
年上の女性は中国の王さんで都内の弁護士事務所に勤務、年下の韓国人女性は崔さんで、大学院で保険学を勉強しているそうです。
(相馬さん、凄い人たちに教えてたんだ……。)
―先生、あの、ここなんですけど……。
王さんは先ほどまで読んでいた新書のページを開き、平野さんに示しました。崔さんもそれを覗き込みました。何だか少人数の輪読会のようです。
―ここに「ああ言えばこう言うで、取り付く島もなく…」ってありますよね、
王さんは続けます。
―つまり、私が何かを言っても、相手はすぐ言い返して話にならない、ということですよね。でも、話し手にとっては自分のいる所はここ、相手は遠いからあそこ、じゃないでしょうか。どうして「こう言えばああ言う」にならないんでしょう?
―ちょ、ちょっと、待ってね。
初級では絶対に来ない質問に、平野さんは面食らって、メモを取り、自分の知識の確認も兼ねて、聞いてみました。
―目の前で起きていることじゃなくて、心の中で考えることを示すときの「コソアド」は、どんなルールだったかしら?
今度は崔さんが話し出しました。
―自分のことが「コ」になるのは分かるんですが、「ソ」「ア」はけっこう間違えます。
王さんも答えます。
―私もです。
平野さんも不確かになってきたので、一緒に確認をしようと、質問を投げました。
―いつも皆さんに教えているのは、相馬先生ですね。
―はい、あの先生はすごく親切です。
―そうですね。じゃあ王さんは今、どうして「あの」を使いましたか?
聞かれた王さんは、ここで止まってしまいました。代わりに崔さんが答えます。
―たぶん、私たちも、平野先生も、両方とも相馬先生を知っています、から?
(ひとつ確認できたかな?)
平野さんは頷くと、次の質問をしました。
―じゃあ皆さん、今井先生を知っていますか?
また崔さんが答えました。
―いいえ。その先生は、どんな先生ですか?
それを聞いて、王さんは納得した、というふうに人差し指を立てて、こう言いました。
―平野先生は、今井先生を知っています。そして、私たちは知りません。
平野さんは微笑みました。けれども、質問にはまだ答えが出ていません。
―じゃあ皆さん、「ああ言えばこう言う」の「ア」は何でしょうね? 自分が言ったことだけど、相手も聞いたことだから、どちらも了解していることで、「ア」じゃないかしら?
―じゃあ先生、「こう言う」の「コ」は?
王さんが聞くと、崔さんが意見を言いました。
―たぶん、「こう言う」は、今聞いたばかりのことで、心の中ですごく近いんじゃないでしょうか。
「ああ言えばこう言う」は不満を示すから、聞いている自分には嫌なことで、すぐ指させるような、心の近いところにあると思います。
王さんも考え考え、納得したようで、こう言いました。
―やっぱり、ちゃんと理屈がありますね。このことは前に読んだはずなんだけど、日常の話のときは自分で作ったルールで考えちゃうんで、忘れちゃいます。
それを聞いて、平野さんは疑問を感じました。
―王さん、自分でルールを作っちゃうんですか?
―あの、ルールって言っても経験から勝手に思ったことで、例えば「ア」のあとには、図書館とかデパートとか具体的なもの、「ソ」のあとには「その点」「そのくらい」とか抽象的なものが
来るとか、そういうことです。
それを聞いた崔さんも、
―良くわかります。私のルールは、具体的な場所の後は何も考えずに「で」、抽象的な場所は「に」です。いつもこの程度で済ませていたんで、今日はすごくいい勉強になりました。
☆ ☆ ☆
翌週、お礼を言いに来た相馬さんに、平野さんは言いました。
―相馬さん、凄く難しいこと、教えてるんですね。私、難しいことを聞かれて、頭の中、真っ白になっちゃって……。
―いえ、自分も聞かれても分からないことばかりっす。でも何か筋道立てられるようにお手伝いすると、あとは二人で考えてくれるから、ラクっすよ。
相馬さんはニコッと笑って、またギターのケースを背負うと、軽く頭を下げて、帰って行きました。その後姿を見送りながら、
(ラクをするっていうのも、上級ではアリかもしれない。)
と、ちょっと思いました。
【どうする、どうして?】
読者の皆さんのほとんどは初級の授業をしたことはあっても、中級や上級の経験は少ないと思います。特に上級は教材の数も少ないし、どうしたものか戸惑う方も少なくないでしょう。
わたしが初めて上級を担当したのは1988年、アメリカの大学で教えていたときでした。教案一つ書けずに困っていたとき、主担当のN先生が、日本語を教え込むより、「相手から日本語を引き出す気持ち」でやってみたら、というアドバイスを頂きました。
今回、平野さんは心の中の物事を示す(文脈指示)コソアドについて、ルールを教えるというより、疑問点の筋道を立てて、一緒に考える方法を取りました。上級話者の場合、日本語を使ってしている生活や仕事はかなり多様で、高度なものです。学習者の疑問のすべてについて知識を教えるのではなく、考え方の交通整理をしてあげるだけでも、ボランティアの先生としては充分すぎるほどです。
荒川洋平の日本語教師ビギナーのためのワンポイントアドバイス『もしも・・・あなたが外国人に「日本語を教える」としたら』番外編は今回の第12回をもちまして連載終了いたします。ご愛読ありがとうございました。
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荒川洋平 (あらかわ・ようへい)
東京外国語大学准教授(留学生日本語教育センター)。
専門はメタファー研究を中心とした認知言語学。
著書に『もしも・・・あなたが外国人に「日本語を教える」としたら』、
『続・もしも・・・あなたが外国人に「日本語を教える」としたら』、
『とりあえず日本語で もしも・・・あなたが外国人と「日本語で話す」としたら』(弊社刊)
『こぐまのお助けハンドブック-悩める日本語教師たちに贈る』(アルク)、
『日本語教師のための応用認知言語学』(共著・凡人社)、『日本語という外国語』
(講談社)などがある。
荒川洋平先生の電子書籍
もしも…あなたが外国人に「日本語を教える」としたら〈デジタル版〉
続・もしも…あなたが外国人に「日本語を教える」としたら〈デジタル版〉
もしも…あなたが外国人と「日本語で話す」としたら とりあえず日本語で〈デジタル版〉