![荒川洋平の日本語教師ビギナーのためのワンポイントアドバイス『もしも・・・あなたが外国人に「日本語を教える」としたら』番外編 荒川洋平の日本語教師ビギナーのためのワンポイントアドバイス『もしも・・・あなたが外国人に「日本語を教える」としたら』番外編]()
日本語ボランティアの今井さんは、今日、教室にはいません。
現役を引退したはずの彼は今、なぜかスーツ姿で会社の会議室にいます。今井さんの前には別のスーツ姿の男性が座り、何やら熱心に話し込んでいます。
今井さんは、電機メーカーに復職したのでしょうか? そうではないにせよ、最近の今井さんは、どうも「ビジネス日本語づいている」ようです。
もう少し近づいて、様子を見てみましょう。
☆ ☆ ☆
―つまり、リッカルドさんには、もっと丁寧な日本語を話して頂きたいわけですね。
今井さんはそう確認し、慣れない手つきで手元のタブレットに「丁寧な日本語」と書き込みました。書き終えたのを見計らって、人事部長は答えます。
―そういうことです。社内的には良いんですが、顧客へのプレゼンの際など、あんまり失礼に響いてしまうと、ちょっと問題ありますんで。
部長はそう答えると、窓の向こうにそびえ立つ東京スカイツリーに目をやりました。
ここは下町に本社を持つ、中堅どころの貿易商社です。
先週、今井さんはボランティア教室の新しい学習者であるリッカルドさんから、職場で日本語が上手に使えない、助けてくれないだろうか、と泣きつかれました。
ボランティアの枠を超えた仕事のように思いましたが、今井さんは持ち前の義理堅さから、つい引き受けてしまい、今日は数年ぶりにスーツを着て来社し、リッカルドさんがどんな日本語を使っているのか、聞き取りに来たのです。
―リッカルドさんはいちおう、能力試験もN2を持っていますし、なかなか流暢に話せると思いますが…。
と、今井さんは水を向けてみました。
―もちろん、普通に話す分には問題ありません。前向きな性格ですし、社内のムードメーカー的なところもある人です。問題はですね、今井先生、丁寧に話すべきところでぞんざいな口調になってしまって、なれなれしい印象を与えてしまうことなんです。
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―それは、その、対外的な面でしょうか。
―それもありますし、何て言うんでしょう、昼休みはちょっと気を抜いても、午後の会議ではビシっとしなくちゃいけない時って、あるじゃないですか。コトバ一つで引き締まったり緩んだりする雰囲気って、先生、お分かりになりますか。
今井さんは現役時代の目に戻って頷き、こう返しました。
―わたしも長く事務機メーカーにおったので、多少は分かります。わたしの所では外国人の社員はおりませんでしたが、結局、会社という場での上手な日本語っていうのは、仕事になる日本語、お金になる日本語、じゃないかと思います。
人事部長は、わが意を得たり、という表情になり、今井さんの手を取らんばかりに身を乗り出して、こう言いました。
―おっしゃるとおりです、今井先生。実は弊社では、来週、国内大手のピザチェーンさんにプレゼンを行い、リッカルドさんがイタリアで選んだソーセージを売り込む予定なんです。ぜひ、日本語の特訓を、お願いいたします!
☆ ☆ ☆
翌日の夕方、ボランティア教室で、今井さんとリッカルドさんは1対1で向き合っていました。ビジネスの練習ということで、今井さんは昨日と同じスーツ姿、リッカルドさんも会社から直行で来たので、彼もスーツ姿です。
今井さんは、人事部長から貰ってきたソーセージとハムのカタログを取り出しました。オレンジ色が基調のカタログは全部イタリア語で書いてあり、もちろん今井さんには読めません。
―ではリッカルドさん、練習です。このソーセージの良いところを、ちょっと説明してください。
リッカルドさんは承知した、という表情でメタルフレームのメガネをちょっと上げ、
―はぁい、このサルシッチャは、ぶっちゃけ……。
―あっそぉる、ためんてぇの!(Assolutamente no!=ダメダメ!)
今井さんはいきなり、怪しいイタリア語を繰り出しました。どうやら通じたらしく、リッカルドさんは可笑しさと驚きで、微妙な表情になりました。
―リッカルドさんね、
今井さんは日本語に戻し、微笑を絶やさずに続けます。
―「ぶっちゃけ」は、仕事の日本語では、ありません。
―そぅですか? でも皆、言います。わたし、会社の人から、ランチの時に習いました。
リッカルドさんは大きな手つきで反論します。今井さんは対抗するためか、慣れない手つきで人差し指を上げると、
―そうです。でもそれは、ごはんの時でしょう。その人は会議やプレゼンの時、「ぶっちゃけ」を言いますか?
―それは、あぁ、分からない。じゃあ先生、何て言いますか? その表現を教えますか?
今井さんは今のことばも直したいと思いましたが、人が出来ることは一度に一つ、と思い、
―この場合は、そうですね、「率直に申し上げて」です。あと、サルシッチャはイタリア語ですから「ソーセージ」がいいですね。
そっちょくにもうしあげて、とノートに書いていたリッカルドさんは、不満気に顔を上げました。
―いえ、サルシッチャはソーセージではありません。サルシッチャは生で、ソーセージは茹でたものです。
今井さんも負けてはいけません。
―そうですか。でもリッカルドさんは、ピザの会社にそれを売りたいでしょう? そうしたら、その会社の人が、分かるように、日本語を使いましょう。そうすれば、その会社は嬉しいでしょう。リッカルドさんも、リッカルドさんの会社も嬉しいでしょう。とぅっち・その・ふぇりぃち!(Tutti sono felici! = みんなハッピーです)
漢文を読み下すような怪しい響きですが、今井さんがイタリア語まで使って説得したことに驚いたのか、リッカルドさんは態度を改め、聞く姿勢を取りました。
―じゃあ続けましょうか。まず、自分の会社は「弊社」と言います。そして…
☆ ☆ ☆
翌週、今井さんは教室でリッカルドさんを待っていました。
ところが、10分経っても彼は来ません。ボランティア教室では、30分経っても来ない場合、その日のレッスンはキャンセルになります。
プレゼンは、うまく行ったのでしょうか。もしかしたら、うまく出来なかったリッカルドさんは、今井さんとのレッスンも、止めてしまったのでしょうか。
少し心配になった今井さんが連絡しようと携帯電話を手にした途端、ドアが開きました。
顔を上げた今井さんの前に、ソーセージの山が入ってきました。そう見えるほどの、山盛りのソーセージでした。
その山の後から、満面に笑みを浮かべたリッカルドさんが顔を出しました。驚く今井さんにソーセージを押し付けると、そのままリッカルドさんは、今井さんの背に手を回しました。
―ありがとう、先生、うまく行きました! ピザの会社は、わたしたちのサルシ…ソーセージを買ってくれました! 会社の人も、わたしの日本語を褒めてくれました! これは、会社からお礼です。本当にありがとうございました! Buonappetito!(たくさん食べて下さい)
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【どうする、どうして?】
ビジネス日本語と聞いて、あまり経験がない教師が考えることは、社長・課長といった会社に関わる単語や、名刺の交換という場面です。しかし実際、仕事で使う日本語の領域というのは膨大です。人の数だけ、異なる日本語の種類があるといっても過言ではありません。それは外国人が仕事で日本語を使う場合も、同じです。
ビジネス日本語のプロの先生の場合、実際にレッスン前に学習者や、その人が勤める社内の関係者に聞き取り調査を行なうことは、決して珍しくありません。それによって教師は、その学習者に求められるものがどのようなものかを見極め、授業の個別化や内容の精緻化をはかるのです。
なぜなら、仕事の日本語とは単語を覚え、文が言えればそれで終わりではなく、それを使って仕事が成功して、初めて価値を持つからです。これは実は、いかなる日本語教育の場合も同じです。少し大げさですが、学習者が何かを日本語で言えること、相手の日本語が聞き取れることが、彼ら・彼女たちの幸福にいかに役立つか、という観点は、日本語教師であればいつも持ち続けていたいものです。
荒川洋平 (あらかわ・ようへい)
東京外国語大学准教授(留学生日本語教育センター)。
専門はメタファー研究を中心とした認知言語学。
著書に『もしも・・・あなたが外国人に「日本語を教える」としたら』、
『続・もしも・・・あなたが外国人に「日本語を教える」としたら』、
『とりあえず日本語で もしも・・・あなたが外国人と「日本語で話す」としたら』(弊社刊)
『こぐまのお助けハンドブック-悩める日本語教師たちに贈る』(アルク)、
『日本語教師のための応用認知言語学』(共著・凡人社)、『日本語という外国語』
(講談社)などがある。
荒川洋平先生の電子書籍
もしも…あなたが外国人に「日本語を教える」としたら〈デジタル版〉
続・もしも…あなたが外国人に「日本語を教える」としたら〈デジタル版〉
もしも…あなたが外国人と「日本語で話す」としたら とりあえず日本語で〈デジタル版〉