
平野さんは日本語ボランティアです。今日は授業のあと、駅前のカフェでお昼を済ませながら、教案を見直しているところです。
平野さんは授業のあと、なるべく早く教案を見返しながら、学習者の反応やうまく行かなかったところ、疑問点などを赤ペンで入れる習慣があります。
目下の彼女の課題は、「助詞の教え方」でした。
助詞は中国人の学習者のように、そもそもその概念がない国の出身者には教えることが難しく、また教えても次から次へと新しい用法が出てくるので、そのたびに解説が必要です。これが意外に時間を取ってしまい、文型や練習に割く時間が削られてしまいます。
今日の平野さんも、「から」の説明に時間がかかり、練習Bまで進める予定だったのが練習Aの途中で終わってしまい、心残りになっていました。
助詞の「から」は、教科書ではふつう「9時から5時まで」と時間とともに使われる用法で最初に出てきます。その後、「東京から大阪まで」のように空間を示す言い方が加わり、さらに
・箱から手紙を出す
・牛乳からチーズを作る
・カナダ人から英語を習う
など、時間でも空間でもない用法が出てきます。
今日、平野さんはマレーシア人学習者のチアさんから
「鈴木さんは家から出た。」
「鈴木さんは家を出た。」
の違いを聞かれ、じょうずに答えられなくて時間を使ってしまいました。
手持ちの電子辞書で「から」を引きましたが、個々の意味が別々に載っているばかりで、これでは解決にならないどころか、新たな意味が加わる一方で、助けにはなりません。
飲みかけのカフェラッテを脇にやり、個々の「から」の意味に合う例文をノートに書きこんでいた平野さんは、あることに気がつきました。
(何か、重なり合う共通の意味があるのよね…。)
「受け取る相手」とか「始まりの時間」とか、意味はさまざまですが、平野さんにとってはそれはどこか似ていて、共通する大きな意味があるように思えました。
(もし、それを上手に教えられたら推測が付くようになるんだけどなあ)
目の疲れを感じた平野さんは「先生」をするときのメガネをはずして、ソーサーの手前に置きました。それをぼんやりと見るうち、彼女は自分の思い付きを形にする方法がひらめきました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
次の週、平野さんの生徒はまたマレーシア人のチアさんでした。チアさんは国で学校の先生をしていたこともあり、口は重いのですが、分析的に考える人です。
-チアさん、先週の質問ですが…。
平野さんは、そう言って一枚の手書きの紙を彼女に示しました。紙にはメガネのフレームのような形が描かれており、チアさんは小首をかしげて、じっとそれを覗き込みます。
-「から」は、いつも「始まり」です。そこから、何かが始まります。たとえば「9時から仕事が始まります」「東京から、大阪まで行きます。」などですね。
-じゃあ先生「家から出た」と「家を出た」は何が違いますか。
-それは、ここを見てください。
平野さんは、絵の上のほうを指差し、こう言いました。
-「から」の始まりは、いつもハッキリ、よくわかります。目で見ることができます。たとえば、地震です。大きいです。だから、鈴木さんは家からでました。
そう言いながら、平野さんは揺れている家をサラサラと手書きしました。
-「家を出ました」の「家」は、見ることができるとき、できない時があります。たとえば、鈴木さんは学生です。でも、結婚して家を出ました。この場合、チアさん、たとえば買い物のために出ましたか?
-いいえ。たぶん、夫の人と、いっしょに…あぁ、新しいアパートで…生きます。
-そうです!
平野さんは思わず大声になり、チアさんの日本語のミスはあとで直すことにしました。
-このときの「家」は建物の家と家族がいっしょです。鈴木さんの、頭の中にある「家の考え」のことです。
絵を見ながら考えていたチアさんは、納得したように頷くと、
-じゃあ先生、「大学から出ました」は学生が、今日の勉強が終わって、学校の外に行きましたね。そして、「大学を出ました」は、あぁ、graduation (卒業)ですか?
-ハイ、そうです。
そう答えながら、平野さんは自分のつたない説明でもチアさんがよく理解したことに驚き、彼女の例のほうがもっと良かったな、と思いました。
チアさんはそんな平野さんの気持ちに気づいていないようで、
-先生、わたしはこの紙をもらっていいですか?
と手を伸ばしました。
-あ、これは一枚しかないので、コピーをしますね。
平野さんはそう言い、立ち上がってコピー機に向かいました。
(3時間も考えたんだから、この紙は宝物よね。)
【どうする? どうして?】
平野さんの直感、つまり「さまざまな助詞の意味には、その全体を括るような大きな意味がある」というのは認知言語学で言う「超スキーマ」という考え方に近いものです。
同音異義語は別として、ある語が同じ形をしていれば、その意味構造はだいたい同じです。その全体を統括するような意味がスキーマです。
平野さんは今回、考えに考えて「から」が「はじまり(=起点)」を示し、その後の移動も含意することを述べて、「を」との違いを明らかにしました。この
○「から」は起点・移動に焦点を当てる
という考え方を進めると、類似の助詞
○「に」は何かの動きの到達点、つまり「着点」に焦点を当てる
ことが見えてきます。
「チアさんは平野さんから答を教えてもらった」
「チアさんは平野さんに答を教えてもらった」
はどちらも言えますが、
「チアさんは平野さんに写真を撮ってもらった」
は「から」は使いません。それは、「に」は情報やものの移動よりも、写真を撮ってあげるという恩恵が「誰に」向けられたかに焦点が当たるためです。「作ってもらった」「見てもらった」なども同じですね。
このように、理論的なことは面倒ですが、実際の教え方に直結するものでもあります。時々は専門書を開き、日々の授業実践や教科書の内容と照らし合わせながら考えるのも、大切なことだと思います。
荒川洋平 (あらかわ・ようへい)
東京外国語大学准教授(留学生日本語教育センター)。
専門はメタファー研究を中心とした認知言語学。
著書に『もしも・・・あなたが外国人に「日本語を教える」としたら』、
『続・もしも・・・あなたが外国人に「日本語を教える」としたら』、
『とりあえず日本語で もしも・・・あなたが外国人と「日本語で話す」としたら』(弊社刊)
『こぐまのお助けハンドブック-悩める日本語教師たちに贈る』(アルク)、
『日本語教師のための応用認知言語学』(共著・凡人社)、『日本語という外国語』
(講談社)などがある。
荒川洋平先生の電子書籍
もしも…あなたが外国人に「日本語を教える」としたら〈デジタル版〉
続・もしも…あなたが外国人に「日本語を教える」としたら〈デジタル版〉
もしも…あなたが外国人と「日本語で話す」としたら とりあえず日本語で〈デジタル版〉